いつか

堀場康一


  •  「あなたにはやさしい心づかいというものがありませんのね。ただ真理一点ばりで──そのために、不公平ということになりますわ」
     「あなたはお仕合せ? お仕合せなの?」(注)



 いつだったか、ぼくは意地の悪いよろこびを覚えながら、季節の上に死に急ぐ人たちを冷ややかに眺めていた。なまぬるい人間たちの優柔不断なおしゃべり、投げやりなわざとらしいしぐさ、……ぼくはもう飽き飽きしていた。
 権謀術数と無意味な情報の氾濫、スモッグとへどろの大洪水。はたしてぼくに何ができたというのだろう。
 腐敗しつくした汚れきった現実から、ともかくぼくは逃れたかった。どうにも耐えられなくなったのだ。ぼくはこっそり退却した。
 ぼくは世界の背後に閉じこもり、現実を嘲笑しつづけた。頑迷に研ぎ澄まされたぼくの頭は、何もかもずたずたに切り裂いた。
 罪深き人間どもよ、もっとあがき苦しむがいい──ぼくは人々が悲鳴をあげてのたうちまわる地上の、地獄のような光景を見下ろしながら、山の頂きでひそかに笑い転げた。ぼくは人間というものを軽蔑しきっていた。

 はたしてぼくはどこにいたのだろう?
 ぼくという人間はどこにいたのだろう?

 ぼくを待ち構えていたのはほかでもない。悪魔だった。ぼくは悪魔の誘いにおずおずと応じた。悪魔は冷たく食い入るような目つきでぼくを睨むと、重苦しい口調できっぱりとたずねた。「ささやかな幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか? さあ、どちらがいい?」
 この途方もない質問にぼくは即座に答えることができず、ただ黙って聞き入るばかりだった。悪魔はぼくが返答に困っているのを見届けると、さも満足げな様子で、もう一度ぼくを隅々まで眺めつくして、さっさとどこかへ立ち去った。

 ぼくは激しい屈辱と自己嫌悪にさいなまれた。ぼくには何もわかってはいなかった。傲慢さや臆病さを真実と取り違えていたのだ。ぼくはわが身の傲慢さ、わが身の臆病さを恥じ入った。

 現実から逃れることによって得たものは、一体何だったのか。生活のない思弁──ぼくは肉体を離れた観念の上を、わがもの顔で歩き回っていたにすぎなかった。自己を偽りつづけていた。とんでもない思い違いをしていたのだ。

 ぼくが肉体を離れた観念を捨てようと試みていたら、ぼくのまわりはなぜか生々しく動きはじめた。今まで固く凍りついていたものが、ゆっくり溶け出した。今まで見えなかったものが、うっすらと少しずつ見えてきた。

 ぼくは様々な人々が生活しているどろどろした現実に浸りながら、ゆるやかに生きながらえたいと欲した。もはや苦痛が快楽だとは言えなかった。苦痛を苦痛として、悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、素直に受け入れよう。

 ぼくは日常に追われながら、悪魔の途方もない質問を反復していた。いつかしらあのひとの姿を思い浮かべていたら、あのひとはきびしい祈るような眼差しで、ぼくのほうをじっと見ていた。ぼくは驚きのあまりどうしてよいかわからず、うろたえるばかりだった。そして一瞬わけがわからなくなり、不思議な感覚がぼくを襲った。

 長い暗闇の彷徨のはてに、何かが見開けたような気がした。心の奥深くわだかまり、たえずぼくを悩ませていたものが徐々に退いていき、代わりに何か清らかな、澄んだ感情が芽生えるのを感じた。ぼくはつぶやいた。「愛のうちにこそいっさいが、いっさいの真実が秘められている」 ほのかな光があたりをさりげなく照らしていた。

 ある日新しい生活が始まった。のどかなすがすがしい朝だった。ぼくはほんのりと希望を胸に抱き、ふたたび旅にさまよい出た。

 ところで、ぼくたちに、偽りの愛をあざ笑うことが許されているだろうか?

(了)

(注) ドストエフスキー著『白痴』(木村浩訳)より。


付記

 同人誌「地平線」5号(1974年1月発行)に投稿、掲載してもらった詩「いつか」を見直して、加筆修正したものです。
2005/02/09


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