端 緒
堀場康一
汽笛が風とたはむれて
音のとぎれた部屋で
窓硝子をひつかいてゐる
それが合図だつたのか
人は記憶の欠片を根気よく
フライパンでいためた
無数の色で味付けしてから
やたらと胃の腑へ詰めこんだ
噛み砕く隙がなかつたから
どんな味かわからなかつたし
わからなくてもよかつた
借着の喪服を羽織り
インキの染みを気づかひつつ
歳月をありあはせの器に注いだ
器からは涙のやうな雫が
いくすぢもしたたりおちた
人はからかひ半分に嘗めてはみたが
甘くはなかつた
苦くもなかつた
ひからびた肖像のかをりがした
季節がかはるがはる門を叩き
掌からこぼれるくらゐの印象が
人の胸をやさしくこづいた
人はなつかしく立ちどまり
足音が行き過ぎるのを待つた
しらんぷりすることだつて
ひつくりかへることだつて
あるいはできたかもしれない
たとへばこころとことばを篩にかけて
ほらほらこれがわたしのいのち
とささやいたとしても
たちどころに拳骨を喰らつたり
失笑を買ふけはいは
まるでなかつた
人は気をまぎらはさうとして
抽斗をかきまはしたり
ポケットを裏返したりしたが
つひに足元は定まらなかつた
それが災ひしたかしないか
人はひどい悪寒におそはれ
筋を追ひかける意欲をやがて失つた
気の遠くなりさうな一瞬が過ぎた
コップがころげ落ちたのだらうか
人は仕方なささうに肩をすくめた
辺りはあひかはらず静けさにあふれ
白い風があしたの方へ吹きぬけた
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