空
堀場康一
ぼくがとてもとても悲しかったとき
ぼくの心は泣きじゃくっていて
いまにも涙が胸からあふれだしそうな気配でした
ところがぼくの顔はそんなことには無頓着で
いつものようにうつろにすましこんでいました
ぼくは少しぐらい悲しそうな表情をしてくれよと
ぼくの顔にお願いしてみました
するとぼくの顔は
そんなこと言われても無理なものは無理なんだ
といって物憂げなまなざしで首を横に振るのです
ぼくはますます悲しくなってしまいました
ぼくが沈みこんでいると
どこからともなく美しいミューズが現われて
どうしてそんなに悲しんでいるの
元気をお出しなさいと
やさしく語りかけてきました
なにげなくミューズの顔を見あげると
彼女は声高らかにあふれる想いをこめて
プーシキンの詩を口ずさみ
酔わせるようなバッカスの歌をうたい
それからにこやかな笑みを浮べて
ひんやりとした土のうえを踊りはじめたのです
ぼくはミューズのあたたかい心づかいが
言葉に言いつくせないほどうれしくて
いつまでも彼女の姿を追いかけました
彼女のしぐさのひとつひとつが
胸にしみ入るように
ぼくのぬれた心を元気づけてくれました
でもぼくの心はちっとも泣きやんではくれません
ぼくはしだいに心苦しくなって
そわそわしはじめました
そのうちにミューズは
ぼくの落ち着かない様子に気づいたらしく
なんだかしょんぼりとして
深刻に考えこんでしまいました
しばらくしてミューズはていねいにいとまを告げると
さびしそうな影を引きずりながら
暗闇のかなたへ立ち去って行きました
ミューズがいなくなるとあたりには
人々の楽しそうな話し声が聞こえはじめ
ぼくはこの世界にたったひとり
取り残されたような気がして
やっぱり悲しくて仕方がありませんでした
ぼくは夜風のすきとおっている街路へ飛びだして
ミューズはどうしたのかしら
どこへいったのかしらと
人影の見あたらなくなった夜の町に
彼女の後姿を追いかけたのでした
気がついたときぼくは公園にいました
ブランコやシーソーやすべり台はとっくに眠っていて
虫たちだけがまだ起きてひっそりと鳴いていました
ぼくはすみきった夜空を見上げ
ミューズの燃えるようなまなざしを思い浮べながら
ひそやかにささやいている星
お花畑にうずもれた星
夢を見ている星
心を痛めている星
マーマレードをなめずりしている星を
ひとつひとつ時のたつのも忘れて
しんみりと見つめていました
ぼくのからだはいつのまにか
ふわふわと空中をさまよいはじめ
涙ぐんだ心は夜空に吸い込まれていきました |
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