『詩集 ボストンバッグ』
このたび機会を得てこの20年ほどの間に書きためた詩をまとめて出版する運びとなった。私にとっては第一詩集である。
この20年のうちにある意味で世の中は様変わりした。昨1993年8月に八党連立の細川内閣新政権が発足、いわゆる自由民主党55年(昭和30年)体制の崩壊が話題となった。その細川政権も短命に終わり羽田新政権に道をゆずり、と思う間もなく自・社・新党さきがけ連立の村山首相の登場となった。この村山新政権の前途も予断を許さない。 さかのぼって1970年前後は全共闘・第二次安保闘争が世の中を揺動させていた時だった。それにつづく1973年の第一次石油ショックの到来。この時代と青春がだぶって脳裡に浮かぶ人たちも私を含めて数多くいることだろう。 そのような今思い返せば懐かしい状況のなかで、横浜の戸塚を拠点に詩を愛好する同人たちが集まり、1973年1月に同人誌『地平線』第1号が刊行された。それ以後回を重ねたが、同人の転居等も手伝って、1976年7月の第14号で『地平線』の刊行は終了した。わずか4年ほどの短い期間であったが、私の詩作はこの同人誌での活動がもとになっている。今回の詩集にも、いちいち初出を明記しなかったが、この同人誌収録の詩がかなり含まれている。天野英氏、山岸秀章氏、浅見信夫氏はじめ、かつての同人たちに心から感謝している。この『地平線』がなければ私の詩作は始まらなかったかもしれない。 さて、詩人の務めは何かと問われれば、詩を書くことだと即座に答えよう。しかし詩的世界を構築するのは、容易ならざる業である。私自身、ある詩誌に投稿したさいに、選者(岩成達也氏)より私の詩に対し貴重なご指摘を受けたことがある。すなわち「例えば、筋の運びの面白さのみに終始し、……、そのため詩的関係であればそれらを通して(=否定して)現前してくるはずの〈異空間〉が容易には現れてこないのである」(『現代誌手帖』1982年7月号、選評)。この指摘に対し私自身どこまで返答できるのか、今もって名案はない。私には詩を書くことによってそれを乗り越える手だてしかなさそうだ。 詩の創作に対する表現上の責任から作者は逃れがたいとはいえ、詩は書かれた時点で作者の手を離れ、読者の手にすべて委ねられる。そこで作者は筆を擱きしばし英気を養い、新たな詩の第一行目が立ち現れる瞬間をじっと待ち受けることになる。これから何が始まるのか。それはすべて作者の世界に対する態度、取組みにかかっている。 末尾のノート「ある旅立ちの試み」は、ちょうど20年前に『地平線』に投稿、掲載されたものを、再録するにあたり、一部修正し改題(旧題「さまざまなるもの」)したものである。いま思えば論の立て方に偏りがあり、抽象論に終わっていることは否めないが、基本的な考え方はその当時も今も大して違わないように思う。読者諸氏のご批判を仰ぎたい。なお「ある旅立ちの試み」で取り上げさせていただいた人物で、その当時ご健在でありながら20年後の今日すでに他界された方が数人いる。謹んで故人のご冥福をお祈りすると共に、時の流れの速さと個人的思索の進行の鈍重さを痛感する。 終わりに本詩集の刊行にあたり、友人でありかつての同人でもある駒ケ根市在住の山岸秀章氏並びに宮沢印刷の片桐美登氏に大変お世話になった。お二人には詩の選定、編集、装幀などいろいろご助言ご支援を賜った。あらためて感謝申し上げる。 リラックスを心掛けて、これからも犀のごとく詩と格闘していきたいと思う。 平成6年9月 名古屋にて 堀場康一 |