ボストンバッグ

堀場康一


おれの心が夕暮れにまぎれて
ふいに姿を消そうとしたとき
おれはずいぶん慌てたものだ
おれは走りに走り
自動車を追い越し信号を無視しついに
百貨店のショーウインドーを突き抜けた
おれの心は売り場嬢となにやら
入り組んだ話を交しているらしく
顔がほころんだりゆがんだり
ひきつったりしていたが
おれは構わずつかみかかり
格闘のすえやつを取り押えた
そのときおれの眼中には幸か不幸か
売り場嬢のなまめかしい姿はなかった
まして哲学者好みの心身論議など
すっかり忘れていた
おれはおれの心がいとおしくて
手を替え品を替えあやしてみたが
おれの心は迂闊にも
おれのことが気に食わぬらしく
知らんぷりしている
おれは残念に思い
しょげかえりひっくりかえり
途方にくれてやった
それを見て気を許したのか
やつの仕種が物静かになってき
その隙におれはとんだことを思いついた
やつの面の皮を剥いで鞣し
ボストンバッグに仕立ててやろうと
おれは思いついたことは
準備そこそこに手をつけるたちだから
その折も頃合いを見計らい
おれの心を羽交絞めにし
さっそく一枚一枚引き剥がしはじめた
さいわい生きのいいボストンバッグが
出来上がりはしたが
おれはまたもや慌てふためいた
あとに残っているのはなんと
おれだったのだ
おれはおれと対面し
馬鹿笑いしたいような
泣きじゃくりたいような
錯綜した気持ちになったが
事実唖然としているほかなかった
いっそ死んでやろうと思ったが
自殺志願者リストに載るのは
あまりに光栄すぎて不釣合いだから
おれは古典的方法に倣い
ボストンバッグにおれを詰め込み
おれといっしょに船に乗るべく
横浜港にやって来た
クイーン・エリザベス�鏡す罎�
大桟橋にどっかりと陣取り
あんぐりと見上ぐるは
わが同胞たち
その日港は浮かれた人間であふれていた
おれは紅毛碧眼に身を固め
するりと船腹から忍び込んだ
機械仕掛けの大道具と
譜面どおりの花やかさが
おれの目をすりぬけ耳をかすめた
おれはボストンバッグに手を掛け
うとうとしているおれを小突いた
ボストンバッグのおれは
けむたそうに眉を顰め
ボストンバッグから這い出すと
居心地よい場所をもとめて
船内をさまよい歩いた
おれはやつのアドホックな動作に
ひととき目を瞠ったが
大した感慨は湧かなかった
おれにはわかっていた
やつの素性や思考形式が
おれはやつと競争してはいるが
いつも同じ地点を走っている
おれは無意識に反芻した
やがて船が太平洋に乗り出したとき
おれは大海原めがけて
空っぽのボストンバッグを抛り投げた
それは空中で一回転し
一頻りしぶきを上げ
いつまでも沈むことはなかった
おれは半ば安堵した
おれもやつもボストンバッグも
海面にただよっている
おれはくつろいだ気分になり
甲板に仰向けに寝ころんだ
おれは目を閉じて
はるか夜明け前の無人交差点に立った
そこでおれは仲間たちと
思いおもいのステップを踏んだ
すると水面が小刻みに震え出し
またたく間に大きなうねりとなり
船におそいかかった
おれはびくりとして上体を起こし
ボストンバッグとやつの行方を追った
空は油のように垂れ籠め
海は膠のように凪いでいた
おれは静かに立ち上がり
大きく息を吸い込んだ
そのときひからびた風景が
わずかにずれたような気がした
夕暮れが近づいた



 詩集『ボストンバッグ』目次

 

 Copyright (c) Koichi Horiba, 1996